2012年05月17日
知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館
鹿児島県南九州市 総務部知覧特攻平和会館
〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
電話 0993-83-2525 ファックス 0993-83-4859
マップコード 198 412 223
国を思い 父母を思い
永遠の平和を願いながら
勇士たちは--------------
2012年5月2日 撮影

この知覧特攻平和会館は 大東亜戦争末期 (戦後は
太平洋戦争ともいう) の沖縄戦で人類史上類のない
爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別
攻撃隊員の遺影 遺品 記録等貴重な資料を収集 保存
展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界垣久の
平和に寄与するものです パンフレットより
鹿児島県南九州市 総務部知覧特攻平和会館
〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
電話 0993-83-2525 ファックス 0993-83-4859
マップコード 198 412 223
国を思い 父母を思い
永遠の平和を願いながら
勇士たちは--------------
2012年5月2日 撮影

この知覧特攻平和会館は 大東亜戦争末期 (戦後は
太平洋戦争ともいう) の沖縄戦で人類史上類のない
爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別
攻撃隊員の遺影 遺品 記録等貴重な資料を収集 保存
展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界垣久の
平和に寄与するものです パンフレットより
知覧特攻平和会館





知覧は 昭和16年 大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所が開校 少年飛行兵
学徒出陣の特別見習い士官らが操縦訓練を重ねていましたが 戦況が
緊迫し険悪となり遂に昭和20年本土最南端の陸軍特攻基地となり 20歳
前後の若い隊員たちが満州 日本内地から集結しては 家族 国の将来を
思いながら出撃した地です
沖縄戦で特攻戦死された1036名の隊員は 知覧基地を主軸として万世・
都城基地から 第8飛行師団は台湾各基地 義烈空挺隊は健軍(熊本)基地
から出撃しています
この地が特攻隊の出撃基地であったことから 沖縄戦の特攻作戦で戦死
された隊員の慰霊に努め 当時の真の姿 遺品 記録を後世に残し この史実
を多くの方に知っていただき 特攻を通して戦争のむなしさ 平和の大切さ ・
ありがたさ 命の尊さを訴え 後世に正しく語り継ぎ垣久の平和を折念するこ
ことが基地のあった住民の責務であろうと 特攻基地跡の一角に知覧特攻平
和会館 (昭和50年から昭和61年は知覧特攻遺品会館) を建設しました
毎年5月3日の知覧特攻基地戦没者慰霊祭には全国から参拝者が訪れています
パンフレットより



20歳前後の特攻隊員 招集されこの狭い部屋で何を
思い 母に充てた手紙を 遺書を書いたのだろうか こ
こで一夜を過ごし最後の酒を酌み交わし 最後のおに
ぎりでおなかをみたし 1036人もの若い命が散って
行ったのでしょう

撮影禁止になっていた館内でしたので皆様にお伝え
お見せ出来ないのが残念ですが
母に充てた手紙の数々 読んでいてさすがにうるると
来て涙がぽろぽろでした
若い皆様もぜひこの知覧特攻平和会館行ってほしい
所です 観光で鹿児島を訪れるならぜひツアーの
一つに入れてほしいところです
戦争の無駄さ 命の尊さをひしひしと感じ取れる知覧
特攻平和会館です
館内いっぱいに手紙や遺書を展示してあり 多くの人が
覗きこみ 中々その場を離れず いっぱいの手紙を読み
こんでいるようです どの人もその目頭はうるんでいます
私だけではなかったようです・・・・・・
------------------------------------------------------------------------------
ネット探していたら私の目頭をうるましてくれた手紙を発見
戴いてきちゃいました
「母を慕いて」
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言へ世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福だった
ついに最後迄「お母さん」と
呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったらう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでせう
今こそ大聲で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
相花信夫
第七七振武隊
昭和二〇年五月四日出撃戦死
宮城県 一八歳
こうしてもう一度読み返して居ても涙ぐんでしまいます
お名前も掲載されていましたどうしようか迷いましたが
こういった事実 皆様にも知っていただきたくそのまま
アップすることにしました 何百枚という手紙や遺書の
数々全部読むと1日ではとても無理かも・・・・・
私たちも1時間半ほどは釘づけでした
私の一番印象に残っていた手紙だっただけに 頭の
中に覚えきれないでいた手紙を探し当てた時 とても
うれしくすぐに追伸アップしました
実際のお手紙は達筆な筆で書いたのが多く 中には
とても読めないくらいの文字で書かれた手紙もありました





知覧は 昭和16年 大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所が開校 少年飛行兵
学徒出陣の特別見習い士官らが操縦訓練を重ねていましたが 戦況が
緊迫し険悪となり遂に昭和20年本土最南端の陸軍特攻基地となり 20歳
前後の若い隊員たちが満州 日本内地から集結しては 家族 国の将来を
思いながら出撃した地です
沖縄戦で特攻戦死された1036名の隊員は 知覧基地を主軸として万世・
都城基地から 第8飛行師団は台湾各基地 義烈空挺隊は健軍(熊本)基地
から出撃しています
この地が特攻隊の出撃基地であったことから 沖縄戦の特攻作戦で戦死
された隊員の慰霊に努め 当時の真の姿 遺品 記録を後世に残し この史実
を多くの方に知っていただき 特攻を通して戦争のむなしさ 平和の大切さ ・
ありがたさ 命の尊さを訴え 後世に正しく語り継ぎ垣久の平和を折念するこ
ことが基地のあった住民の責務であろうと 特攻基地跡の一角に知覧特攻平
和会館 (昭和50年から昭和61年は知覧特攻遺品会館) を建設しました
毎年5月3日の知覧特攻基地戦没者慰霊祭には全国から参拝者が訪れています
パンフレットより



20歳前後の特攻隊員 招集されこの狭い部屋で何を
思い 母に充てた手紙を 遺書を書いたのだろうか こ
こで一夜を過ごし最後の酒を酌み交わし 最後のおに
ぎりでおなかをみたし 1036人もの若い命が散って
行ったのでしょう

撮影禁止になっていた館内でしたので皆様にお伝え
お見せ出来ないのが残念ですが
母に充てた手紙の数々 読んでいてさすがにうるると
来て涙がぽろぽろでした
若い皆様もぜひこの知覧特攻平和会館行ってほしい
所です 観光で鹿児島を訪れるならぜひツアーの
一つに入れてほしいところです
戦争の無駄さ 命の尊さをひしひしと感じ取れる知覧
特攻平和会館です
館内いっぱいに手紙や遺書を展示してあり 多くの人が
覗きこみ 中々その場を離れず いっぱいの手紙を読み
こんでいるようです どの人もその目頭はうるんでいます
私だけではなかったようです・・・・・・
------------------------------------------------------------------------------
ネット探していたら私の目頭をうるましてくれた手紙を発見
戴いてきちゃいました
「母を慕いて」
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言へ世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福だった
ついに最後迄「お母さん」と
呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったらう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでせう
今こそ大聲で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
相花信夫
第七七振武隊
昭和二〇年五月四日出撃戦死
宮城県 一八歳
こうしてもう一度読み返して居ても涙ぐんでしまいます
お名前も掲載されていましたどうしようか迷いましたが
こういった事実 皆様にも知っていただきたくそのまま
アップすることにしました 何百枚という手紙や遺書の
数々全部読むと1日ではとても無理かも・・・・・
私たちも1時間半ほどは釘づけでした
私の一番印象に残っていた手紙だっただけに 頭の
中に覚えきれないでいた手紙を探し当てた時 とても
うれしくすぐに追伸アップしました
実際のお手紙は達筆な筆で書いたのが多く 中には
とても読めないくらいの文字で書かれた手紙もありました
Posted by jichan2 at 23:30
│2012 南九州の旅